金砂城の戦い

色づく山に歴史あり
色づく山に歴史あり

紅葉の美しい季節になりましたね!

 

日に日に涼しくなりますが、山を登って色鮮やかな景色を楽しむには最高の季節です。

 

今回は、今から800年以上前、紅葉の山の中で繰り広げられたある戦いを、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」からご紹介します。

 

時計の針を巻き戻しましょう。

ぐるぐるぐる…… 

治承4年、11月4日(ユリウス暦1180年11月後半)。
 
常陸の地(現在の茨城県石岡市)に、馬上に甲冑武具を身につけ、武将たちを従えた源頼朝の姿がありました。
 
同年8月、以仁王(もちひとおう)の令旨を受け平家に対するクーデターの兵を起こした頼朝は、10月、富士川の戦い(静岡県)で平家に大勝。その勢いで、源氏の流れにも関わらず頼朝の挙兵に従わない、常陸の国をおさめる佐竹氏を攻めおとしに来たのです。

 

世に言う「源平合戦」のはじまりの時期でした。

 

                     ◇
 
到着してこの地をよく見てみると、佐竹氏は常陸の国で非常に影響力をもち、国中に部下たちがあふれていることが分かってきました。
 
「これは簡単にいかん。よく策を練ったほうがよいな」
 
頼朝軍は早計に攻撃を開始することをやめ、軍議を重ねました。軍議の結果により、まずは頼朝軍中にいながら佐竹氏の親戚筋であった上総広常(かずさひろつね)に、佐竹氏の思惑を探らせに行かせました。
 
上総広常はもともと平家方で、平清盛に勘当され頼朝に帰順した人でした。「隙あらば頼朝を斬ってやる」と二心を持った人でしたが、この頃には頼朝の毅然とした態度にうたれ、忠臣となっていたようです。
 
佐竹一族の一人、佐竹義政は上総広常と会見し、
 
「分かりました。頼朝様に参じましょう」
 
と言いましたが、義政以上の軍事的実力をもっていた佐竹秀義という青年は、
 
「父が都で平家に仕えている。簡単に頼朝様にくだることはできぬ」
 
と言いました。平家の本隊を退けるほどに強大な軍事力に膨れ上がっていた相手でしたが、秀義は頼朝との戦争を決意したのでしょう。すぐに戦支度を整え、金砂城(きんさじょう・現在の茨城県常陸太田市、西金砂神社のある場所)に軍を率いてこもったのです。秀義、29歳の秋でした。
 
11月4日、歴史に残る「金砂城の戦い」が始まりました。

 

                     ◇

 

頼朝以下数千の兵が、金砂城に総力戦をしかけます。


現在の西金砂神社へ登ってみると分かりますが、城のあった西金砂山(405m)は「男体山火山角礫岩」と呼ばれる、1,500万年前の水中火山から吹き出た溶岩で構成され、ゴツゴツとした硬い山肌は急峻な渓谷と断崖を形成し、金砂城を天剣の要害としています。

山頂に布陣する秀義軍を目指し渓谷を進む頼朝の大軍ですが、絶壁の上から降り注ぐ矢、石つぶてに次々に兵卒が倒されていきます。隘路を塞ぐ岩石に、人も馬も歩を進めることができません。頼朝軍からも矢を射かけますが、崖上に届く気配もないようです。

「この金砂城。あの頼朝を、退けられるかもしれない」
山頂から指示と檄をとばしながら、秀義は思いました。

攻めあぐね、兵士たちにもかなりの疲れが見えますが、頼朝は兵を引きません。すでに西日は傾き、東の空に月がかかりました。

11月5日、寅の時(午前4時頃)。武将たちが頼朝に進言しました。

「佐竹秀義の要塞は、とても人間の力で破ることができるものではないようです。しかも、中にこもる兵は一騎当千の武者たちばかり。何か策を用いた方がよいのではないでしょうか」

「秀義の叔父にあたる者で、佐竹蔵人という人物がおります」
上総広常が献策します。
「彼は智謀にすぐれていますが、強い権力欲があります。これを利用しましょう。武勲の賞を約束してやれば、きっと寝返り、秀義討伐にのってくるはずです」
頼朝は、広常の案を採用しました。

広常は早速、蔵人との交渉に向かいました。蔵人に向かい合う広常は言います。
「現在東国においては、皆が頼朝様にくだっているのだ。わかっているだろう。秀義ひとり抗ったって勝てはしない。味方もいない。」
「あなたが秀義の親族であることはわかっている。だが、だからといってそんな戦いをする必要はないだろう?頼朝様のところへ来ないか。ともに戦い秀義を討ち取れば、その領地をあなたに約束しよう。」

 

                     ◇

激しい戦闘が
激しい戦闘が

蔵人は、恭順しました。
すぐに広常とその兵たちを案内し、金砂城へ向かいました。秀義の築いた防衛ラインの穴をくぐり抜け、金砂城の後ろにまわった広常軍は、そこでときの声を上げました。

城郭の中まで響く凄まじい怒号でした。想定外の方面からの攻撃に秀義とその部下は防戦体制を整えられず、続く戦闘で劣勢となり、ついには崩れ、兵は散り散りになりました。
佐竹秀義は、行方をくらましました。

11月6日、丑の時(午前2時頃)、上総広常は秀義の去った城へ足を踏み入れ、城壁を焼き払うよう、指示を出しました。

その後、兵たちに道々で秀義の行方をあたらせたところ、深い山に入り、花園城(現在の茨城県北茨城市華川町花園にある花園神社あたり)へ向かったようだとの風聞でした。

1,500万年の時の流れを経て完成した火山角礫岩の要害に守られ、辛くも勝ちを得られるかに見えた秀義ですが、身内の裏切りのため敗北を喫しました。鮮やかな紅葉に彩られた山道を、鎧で覆われた足で踏みしめながら花園に急ぐ秀義が考えていたのは、京にいる父のことでしょうか、裏切りを演じた叔父のことでしょうか。はたまた、源氏の色に塗り替えられていく乱世の行く末だったのでしょうか。 

 

佐竹討伐を果たした頼朝は関東地方の支配を強固なものとし、戦線を全国に拡大します。

5年間続いたこの内乱は、壇ノ浦における平家の滅亡で幕を閉じました。

 

                     ◇

実は花園に落ちのびた後、秀義は頼朝の家臣として列せられ藤原氏との戦い(奥州合戦)で 武勲をあげ御家人となり、佐竹家は復活します。その後長く常陸の地をおさめていましたが、関ヶ原の戦いの際、中立的なスタンスをとり徳川家康に咎められて現在の秋田県地方に転封されました。(ちなみに2012年現在の秋田県知事・佐竹敬久氏は、佐竹家の家系にあります)

紅葉の山に出かけ歩いてみれば、金砂城を脱出し花園を目指した、当時の秀義の気持ちが想像できるかもしれません。

 

(執筆・構成: 小峯慎司)

 

 ※本文は「吾妻鏡」をベースに構成しています

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