水戸のまちの中心に位置する千波湖は歴史や産業に深く関わってきました。千波湖周辺の地形、地質を見て廻ると私たち先人の辿った歴史のまち水戸の足跡が見えてきます。上市、東茨城台地は水戸層を基盤とし、台地は見和層、上市レキ層のレキを主体とする地層からなります。千波湖など低地は那珂川の氾濫で深く削られた川底に柔らかい粘土が堆積しています。台地に蓄えられた地下水は斜面から千波湖に流れ、豊かな水辺環境をつくり上げています。
柳崎貝塚
移動時間:徒歩10分
水戸の台地
移動時間:徒歩15分
台地の構造
ここで観察できる灰白色の泥の層に水をぜひ流してみてください。水がなかなか吸収されないのが観察できます。実はこの層は水を通しにくい難透水層なのです。このポイントから先の公園内でもこの層を観察できるので是非見てください。おそらくそこではこの層から水が湧き出してきているでしょう。この層が水を通しにくいということに注目した水戸光圀は、水戸下町の給水難を解消するべく、この泥岩も用いて笠原水道という約10kmに及ぶ当時としては巨大な水道を作りました。
いことなどを想像しながら下ってみてください。
移動時間:徒歩25分
台地と低地を繋ぐ「銀杏坂」
大昔海がすぐそこまで入ってきていたこと、千波湖が大きかったこと,低地の堆積物は台地よりも新しくやわらかいことなどを想像しながら下ってみてください。
千波湖の歴史
形を変えた千波湖
今から約90年前まで、千波湖の大きさは現在の3倍ちかくもあったのを知っていますか?
実は、今の駅南地区辺りまで大きな湖がありました。では、どのようにして現在の千波湖が出来たのでしょうか
千波湖は昔から人々の生活と深くかかわってきました。江戸時代には、水戸城の外堀と水田の用水源の役割を持っていました。
大正の初めに用水の不足が問題となり、埋め立て計画の実施が決定したのは大正9年のことです。
翌年県が行ったこの事業により、千波湖の3分の2が耕地になり、残った部分は貯水池として利用されました。
昭和25年千波湖周辺の水田化が終わります。その後千波湖周辺を公園化する工事が始まりました。
駅南地区では区画整備が行われ、市役所が移転したり、後に水戸駅南口が完成します。水田だった千波湖干拓地の市街地化も計画されました。
現在の地図に昔の千波湖を重ね合わせてみると、水戸駅南側は、昔の千波湖の中にあります。
では、台地上の①と、昔湖だった②の地盤の違いを見てみましょう。数万年前に蓄積した地点①は固い地層から成っていますが、地点②は人工的に埋め立てられた場所まで、地下25~30らいまで新しい人工的な地層です。①の詳しい地質については、観光ポイント’水戸の台地’をご覧ください。
千波湖の成り立ち